マーケティング脳科学

行動経済学:ピーク・エンド効果を顧客体験設計と離脱防止に活用する

Tags: 行動経済学, ピークエンド効果, カスタマーエクスペリエンス, CX, 顧客体験設計

はじめに:顧客体験(CX)の評価メカニズムへの洞察

現代のマーケティングにおいて、顧客体験(Customer Experience, CX)の重要性はますます高まっています。製品やサービスの機能、価格だけでなく、顧客が企業とのあらゆる接点を通じて得る感情や印象が、購買意思決定やロイヤルティ形成に大きな影響を与えていることは、多くのマーケターが認識していることでしょう。

しかし、顧客は体験全体をどのように評価し、記憶しているのでしょうか。長時間のサービス利用や複雑な購入プロセスを経て、最終的に顧客の心に残る印象や、それが次回の意思決定にどう繋がるのかは、一見すると捉えどころがないように感じられるかもしれません。

この問いに対して、行動経済学は興味深い洞察を提供してくれます。ノーベル経済学賞受賞者であるダニエル・カーネマン氏らが提唱した「ピーク・エンド効果」は、人間の体験の評価と記憶に関する重要な概念であり、顧客体験の設計や改善において非常に実践的な示唆を与えてくれるものです。

本稿では、このピーク・エンド効果の理論を解説し、それがなぜマーケティングにおいて重要なのか、そして具体的な顧客体験設計や離脱防止策にどのように活用できるのかを、実践的な視点からご紹介します。

ピーク・エンド効果とは:記憶と評価の非合理性

ピーク・エンド効果とは、ある期間の体験全体の評価が、その体験中の「最も感情が強く動いた瞬間(ピーク)」と「終了時(エンド)」の記憶によって、強く影響されるという行動経済学の概念です。体験の平均的な感情や印象ではなく、特定の瞬間の記憶が、後からその体験全体を振り返る際の評価を決定づける傾向があることを示しています。

ダニエル・カーネマン氏が行った代表的な実験では、被験者に大腸内視鏡検査を受けてもらい、検査中の不快感を時間ごとに記録させました。その後、検査終了後に全体の痛みの評価を尋ねたところ、興味深い結果が得られました。検査時間全体の不快さの平均値ではなく、検査中の痛みのピーク時検査終了時の痛みの度合いが、検査全体の評価と強い相関を示したのです。たとえ検査時間が長くても、終了時の痛みが軽ければ、全体の評価は高くなる傾向が見られました。

この効果が示唆するのは、私たちの脳が、体験の全ての情報を均等に処理・記憶するわけではないということです。認知的負荷を軽減するためか、あるいは生存に有利だったからか、感情的なインパクトが強かった瞬間や、体験の最終段階の情報に特に注目し、それを全体評価の基準とする傾向があると考えられます。これは、合理的に「体験全体を平均して評価する」という直感に反する、人間の意思決定における非合理性の一例と言えます。

マーケティングの文脈で言えば、顧客があなたの製品やサービスを利用した体験全体の評価は、平均的な満足度だけでなく、特定の感情的な瞬間や、サービス利用の「終わり」にどう感じたかによって大きく左右されるということです。

マーケティングへの実践応用:顧客ジャーニーにおける「瞬間」の設計

ピーク・エンド効果をマーケティングに活用するためには、顧客ジャーニー全体を俯瞰し、「ピーク」と「エンド」になりうる重要な瞬間を特定し、意図的に設計することが鍵となります。

1. 顧客ジャーニーにおける重要瞬間の特定

まず、顧客があなたの製品やサービスと接するジャーニーマップを作成し、その中で感情が動きやすい、あるいは最後に接触するポイントを洗い出します。これらのポイントが、ピークやエンドになりうる候補です。

これらの瞬間は、顧客の記憶に残りやすく、その後のブランド評価やリピート行動に影響を与える可能性が高いポイントです。GAやMAツールを用いたWeb行動データ分析、顧客アンケート(特にNPSやCSAT)、カスタマーサポートへの問い合わせ内容、解約理由などのデータは、これらの重要瞬間を特定し、顧客の感情の動きを理解するための貴重な手がかりとなります。

2. ポジティブな「ピーク」の意図的な創出

顧客体験の中に、記憶に残るポジティブなピークを意図的に組み込むことで、体験全体の評価を引き上げることができます。

これらの施策は、単なる機能提供にとどまらず、顧客の感情に働きかけ、ポジティブな記憶として定着させることを目的とします。

3. ポジティブな「エンド」の設計とネガティブな「エンド」の緩和

体験の「終わり」をどのように設計するかは、ピークと同様に全体評価に大きな影響を与えます。特にネガティブな体験からの回復や、スムーズな終了は、顧客の離脱防止や再利用意向に繋がります。

離脱防止の観点では、解約検討中やサービス利用の最終段階にある顧客に対して、ピーク・エンド効果を意識したコミュニケーションを行うことが有効です。例えば、解約画面に至った顧客に対して、過去のポジティブな利用体験(ピーク)を思い出させるメッセージを提示したり、解約手続き自体をスムーズで分かりやすいものにすることで、ネガティブなエンドの印象を緩和したりすることが考えられます。

4. データに基づいた評価と改善

ピーク・エンド効果に基づいた施策の効果を測定するためには、顧客ジャーニーの特定のポイントでの顧客満足度や感情をデータで捉えることが重要です。

これらのデータを分析することで、どのジャーニーポイントがポジティブまたはネガティブなピークになりやすいか、そしてエンド体験が全体の評価や離脱にどう影響しているのかを定量的に把握し、施策の改善に繋げることが可能となります。

結論:記憶に残る体験が、顧客ロイヤルティを育む

行動経済学のピーク・エンド効果は、顧客体験の評価が、その体験全体の平均ではなく、最も感情が動いた瞬間と終わりの瞬間に大きく左右されるという、人間の記憶と意思決定における興味深い傾向を示しています。

この知見をマーケティングに応用することで、顧客ジャーニーの重要な「瞬間」を戦略的に特定し、意図的にポジティブなピークやエンドを設計することが可能になります。単にサービスを提供するだけでなく、顧客の記憶に深く刻まれるような感情的な体験を提供することで、顧客満足度を高め、ブランドへのポジティブな印象を形成し、結果として顧客ロイヤルティの向上や離脱率の低下に繋げることができるでしょう。

チームで顧客ジャーニーを見直し、データに基づきながら、どこにポジティブなピークを創出できるか、どこでネガティブなエンドを緩和できるかを検討してみてください。ピーク・エンド効果の視点は、CX改善の新たな切り口となり、より効果的な顧客コミュニケーション戦略を構築するための力強い味方となるはずです。